圓徳院(京・東山)
秀吉の妻、北政所ねね終焉の地
豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、 秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。 爾来(じらい)北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。 ねね、58歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、 この地は北政所の終焉の地となった。 そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。 圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、 高台寺の塔頭とされた。寛永9年、ねねの没後9年のことである。 |