圓徳院(京・東山
秀吉の妻、北政所ねね終焉の地

豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、
秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。
爾来(じらい)北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。
ねね、58歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、
この地は北政所の終焉の地となった。
そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。
圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、
高台寺の塔頭とされた。寛永9年、ねねの没後9年のことである。
正門
当初は木下家初代以降歴代藩主の墓が置かれ、
木下家の屋敷となっていた。
そのため正門は長屋門の形態がとられている。
南庭
森蘊博士指導
徳村宗悦氏作

某携帯電話会社のテレビコマーシャルに
映っていました。
竹梅図襖 木下育應 作
月花図襖 志村正 作
北庭 国名勝指定
もともと伏見城北政所化粧後殿の前庭を移したもので、
当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的庭園のひとつ。
賢庭作で後に小堀遠州が手を加えた。
池泉回遊式だが枯山水となっている。
原点となるのは東北部で、枯滝石組を構成し、
築山を中心にして左右に多数の石組を
二等辺三角形にまとめて数群展開させ、
あるいは蓬菜石組を作る。
このように多数の巨岩大岩がふんだんに
置かれている庭は珍しく、
これが桃山時代の豪華さ、豪胆さでしょう。
ここのお店の抹茶ソフトクリームが美味しかった。
高台寺「掌美術館」
圓徳院の隣りに掌(てのひら)のような小さな美術館があります。
ねね様と秀吉公の想いで溢れています。


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